第44回「ごはん・お米とわたし」作文図画コンクール 『幸せのおにぎり』

幸せのおにぎり

壱岐市立郷ノ浦中学校 三年
市山 愛芽

 私が初めて作ったおにぎりは、三角の形でもなく、俵形でもなく、ただの丸いおにぎりでした。中身の具なんてものはなく、ただ表面におかかのふりかけをかけただけのものです。私のよく知るおにぎりは、三角形の形だったため、がんばって三角にしようとしていたのですが、当時六歳だった私の手は小さくてどうしても丸になってしまいました。その日は祖父母が稲刈りをしていたので、私も手伝いに行くことになっていました。私はお腹がすいたときのためにおにぎりをにぎって行こうと思い、あの状況に至りました。父に呼ばれて、にぎったおにぎりを形が崩れるのもお構いなしにリュックの中に放り込んで、いそいで家を後にしました。作業人数が足らず毎年、毎回のように駆り出されていた私は、正直、稲刈りの手伝いなんて嫌でした。ふて腐れた顔を何度もして、何度も父に怒られていました。
   私が手伝っていたのは、はぜ掛けという部分でした。はぜ掛けというのは、稲を刈った後の干す作業のことです。三本の棒をクロスするように柔らかい土にさして、ひもで固定します。これによって横棒を支え、はぜが横へ倒れないようにします。これを何度もくり返して、最後に横棒をのせるのです。地域によって作り方は違うそうですが、うちではこのような作り方をします。そして、横棒に稲の束を掛けていくのです。その中でも私の役割は、横棒の支え作りに必要なひもを作業車から持ってきたり、あちこちに転がっている稲の束を拾ってはぜ掛けをしている祖父や父の足もとに運んでくることです。これがなかなか重たくて、六歳だった私は二束しか持つことができず、毎回行ったり来たりしていました。何より、稲は触わるとはしかゆくなってしまい、半袖で手伝いができず、まだ暑さが残る季節に長袖長ズボンという耐え難い状況だったのです。
   休憩の時間、私は先程にぎったおにぎりを食べようと思い、リュックの中をのぞきこみました。かたくにぎっていたからか、丸い形から崩れておらず、少し安堵しました。おにぎりは四つ作っていたのですが、一つのサイズが大きくて、一つ食べただけでもお腹いっぱいになってしまい、また帰ってから食べようと思ってリュックにまたおにぎりを入れようとすると、父が一つおにぎりをひょいっと私の手からとって、ラップをはずして食べました。それを見た祖父や祖母も、私の横にあった丸いおにぎりをとって食べました。祖母が「これ、愛芽ちゃんが作ったの。」と驚いた顔で聞いてきたので「そうだよ。」と言葉を返すと祖母はニッコリと笑って「上手ね。」と言ったのです。今度は私が驚きました。形もきれいではないし、味もふりかけを表面にまぶしただけ。中身は具なんて入れてないから白いごはんの味しかしないのに。そう思っていると、祖母が言葉を続けました。「味も見た目も必要だけれど、最も必要なものは『心』だよ。愛芽ちゃんはこのおにぎりを私達のためににぎってくれたんでしょ。」まったくその通りでした。父や祖父母がお腹をすかせた時のためにおにぎりをにぎったけれど、形も悪いし中の具の入れ方も分からないので、食べてもらうことを諦めていました。祖母に見透かされていたようで、恥ずかしい気持ちと、素直に嬉しい気持ちが私の中にありました。父と祖父も、何も言わなかったけれど、おにぎりを完食してくれました。
   私が初めて作ったおにぎりは、全て無くなってしまった代わりに『幸せ』を残していきました。今でも私は稲刈の時にはおにぎりを持って行きます。心を込めて作ったおにぎりが、家族や私に幸せを残してくれることを信じて。